猫額の手帖

猫の額ほどの小さな物語を紡いでいます。

『部屋の片付けをする』

 生活感を通り越し汚部屋と化した室内を見回す。ここでどう生きていたのか自分でも疑問に思う。久しぶりにカーテンをあけると、日差しがほこりを浮かび上がらせた。ペットホテルに預けた愛猫二匹を迎えに行くのは十八時。それまでにどうにかしなくては。
 黒のエプロンをつけ、窓を全開にする。ゴミ箱をわきに抱えながら床で散らばるチラシや紙くずを捨てていく。必要な書類はテーブルに移す。同時作業で洗濯物を見つけてかごへ入れる。手洗いの下着やニットはネットに入れ、ドライコースで先に洗う。
 そうだ、控え室で食べられなかった饅頭が鞄に入れっぱなしだ。シンプルな黒地のバッグから取り出し、食器棚の隙間に置く。目線の高さにあれば後で気がつきやすい。片付けの落ち着いた部屋にはたきがけし、掃除機を走らせる。クイックルワイパーひとつで水拭きが出来るなんて、随分と便利だ。ある程度済んだあたりで一回目の洗濯が終わる。ベランダ用のサンダルはよく冷えていて、爪先から冬を感じる。明日は布団カバーもシーツも洗いたい。天気予報をチェックしよう。
 あまり寒さにあたると風邪をひく。換気を終え窓を閉める。夕陽に照らされた何かが台所近くで飛んでいるように見えた。疲労とストレスだろう。社会や世界との関わり方を少し考えたい。サボっていた通院も予約するか。
 あの人に何を話そう。母に尽くした日々が無駄であり、私の生き方を嘲笑うすべてが恐ろしい。夢物語が流されてしまえばいい。立ち上がれないほどずたずたに傷つけて、放り投げて、見捨ててほしい。私は一人で悲観に暮れて死ぬのを待つ。
 喉の乾きを潤そうと台所へ行く。いつの間にかペットボトルのお茶が置いてある。父が差し入れたのか。かちりと蓋を回し、一口の違和感を飲み込んだ。甘い。ジャスミンの芳香が鼻に抜けるがラベルには「緑茶」と表記されている。最近まともな食事をとった記憶がない。味覚もおかしくなったか。棚へ上げた饅頭の包みをひらき、そのままかぶりつく。
「……薄い?」
 こし餡の甘味がなく首をかしげる。これは早く心療内科を再診した方がよさそうだ。エプロンを脱ぎながらカードケースの中身をテーブルへ広げ、かかりつけだった病院の診察券を探す。小さな子供の笑い声が鼓膜で響き始めた。幻覚や幻聴に悩まされたくない。スマートフォンの画面に電話番号を打ち込み、ダイヤルボタンを押す。コール音がぶつりと途切れ、室内へ暗闇が広がっていた。